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東京高等裁判所 昭和48年(う)2190号 判決

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人有吉昭弥提出の控訴趣意書、弁護人田中富雄、同有吉昭弥、同中田直人、同福地明人、同小川芙美子連名提出の控訴趣意補充書記載のとおりであるので、これを引用し、これに対し、次のように判断する。

控訴趣意中事実誤認をいう点(控訴趣意書三、四および同補充書の主張)について。

所論に鑑み、記録並びに、原審及び当審取り調べの証拠を検討してみるに、(一)原判示の日時場所において、被告人運転の原判示自動車(以下被告人車と略称)が、信号待ちのため停車中の石田征夫運転の自動車(以下被害車と略称)に追突し、昭和四七年六月一五日付部外者による事故車両撮影報告書添付の写真のように、被告人車の前部が破損したこと、(二)江守一郎作成の鑑定書(以下江守鑑定書と略称)、昭和五〇年四月八日付捜査報告書によれば、右報告書添付の三葉の写真は、被害車の後部破損状況を撮影したものであるが、写真にあらわれている破損は、本件追突事故により生じたものであること、(三)江守鑑定書によれば、被告人車、被害車の各破損状況から、被告人車の衝突時の速度は、毎時三キロメートルまたはそれ以下と推認されること、(四)被告人車はノークラツチ式の六〇年型フオードフアルコンSであるところ、クラツチをドライブに入れたままブレーキを用いて停車し、その後ブレーキをはなした場合、アイドルによる燃料滴下で作動するエンジンの力で後車輪が駆動され、その駆動力により被告人車はひとりでに前進するが、停車地点から1.5メートル前進した折の速度は、江守鑑定書によれば、毎時約3.3キルメートルと推認されること、(五)この速度が、被害車の変形量から求められた前記の推定衝突速度とほぼ一致することに鑑みると、被告人車が被害車の後方に停止した折の車間距離が約1.5メートルであり、被告人がブレーキペダルから足をはなしたため、被告人車がアクセルを踏むことなしに前進し、本件追突が生じたものと認められ、これと符合する被告人の捜査官に対する各供述調書および原審第四回公判における被告人の供述記載は措信しうるものであること、(六)当審証人荻野幹夫、原審証人双津幸男の各供述記載によれば、いわゆる鞭打症は、停止している自動車に人が歩く程度の速度で追突した場合でも、被追突車の中の人の位置、姿勢によつては、起りうるものであることの各事実を認めることができる。

原審証人石田征夫、同内丸千夜子の各供述記載によれば、本件事故の翌日両名が雙立病院で診断をうけたところ、医師から、石田は、「よくこんな状態で我慢したな、すぐ入院だと言われ、レントゲン写真をみせられ頸椎の継ぎ目がずれているように思つた、三週間入院後、レントゲンでは内出血で黒いところがあつたが無理しなければいいと言われ退院し、更に二週間通院した」旨、また内丸は、「即座に入院し、二週間で退院した後三週間通院した、レントゲン写真による医師の説明では、首の骨が普通ならきれいだが、私の場合は暗くなつていた」旨の記載があり、更に、医師双津幸男の回答書二通、原審証人双津幸男の供述記載によれば、石田については、六月七日のレントゲン写真には、第四、五頸椎部、靱帯の剥離と認められる黒い影および骨と筋の間に内出血の所見がみられ、また内丸については、六月七日のレントゲン写真に、第四、五頸椎間連結の開が認められたとの記載がある。ところで、右双津医師のいう六月七日の石田、内丸両名のレントゲン写真を鑑定した当審鑑定人荻野幹夫の鑑定書、当審証人荻野幹夫の供述記載によれば、鑑定資料による石田のレントゲン写真には、靱帯剥離の所見はなく、また第四、五頸椎部に血腫の影も見られず、同じく内丸のレントゲン写真によれば、第四、五頸椎椎体間の像は正常像であり、第四、五頸椎間連結の開は見られず、頸椎部の内出血は写真上確認できないというのであつて、同鑑定人が、整形外科の専門医であることに鑑みれば、前記双津医師において、右の各レントゲン写真を過剰に読み取り、石田、内丸両名に対し、誤つた説明をした疑いが濃厚である。いわゆる鞭打症とは、客観的な症状がなくて自覚症状があるものをいうのであり、通常心因性反応が随伴するものであるから、前日に追突をうけ、首がなんとなくおかしいとか、頭が重いとか感じ、鞭打症ではないかと疑つて医師の診断をうけた石田、内丸両名に対し、医師がレントゲン写真を示し、頸椎部に異常があり即刻入院が必要であるとの誤つた説明をした場合、その自覚症状が心因的に加重され鞭打症と診断するに充分な諸症状を呈するに至る可能性が少なくないと推認される。両名に対する診療録には、主訴の概要と医療効果の要旨の記載はあるが、石田、内丸両名において、医師からレントゲン写真上は異常がないと告知されたと仮定した場合、どのような自覚症状を訴えたか、その主訴だけで鞭打症と診断しえたか、両名にほどこされた医療措置が過剰なものでなかつたかどうかなどにつき、種々の仮説による推論が可能である以上、右診療録についても証拠としての価値を認めることはできない。以上述べたところに照らせば、本件追突により右両名が蒙つた傷害の程度についての関係証拠は、すべて全面的には措信に価しないものであり、本件程度の追突でも鞭打症が起りうる可能性があり、かつ自覚症状の訴えが医師になされたというだけでは、傷害の点について、証明が充分ではないと言わなければならない。

したがつて、この判断に反し、被告人を有罪とした原判決は、証拠の評価を誤つた結果事実を誤認したものであり、この誤認が判決に影響を及ぼすことは明らかであるから、刑訴法三九七条、三八二条により、その余の論旨に判断を加えるまでもなく、原判決を破棄し、同法四〇〇条但書により更に裁判をすることとするが、前叙のごとく傷害の点について証明が不十分であるから、同法四〇四条、三三六条により、無罪の言い渡しをすることとし、主文のとおり判決する。

(木梨節夫 時國康夫 奥村誠)

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